第9代 井上凖之助(大正8年3月13日〜大正12年9月2日)
第11代 井上凖之助(昭和2年5月10日〜昭和3年6月12日)
後に述べるが、この井上凖之助が蔵相の時に、問題の金解禁を断行したのである。井上凖之助は田中義一政友会内閣の時に、高橋是清蔵相に請われて日銀総裁に就任、「飛車角揃う」と評された。
第10代 市来乙彦(大正12年9月5日〜昭和2年5月10日)
井上凖之助の名前が登場したところで、倭国を地獄の戦争に導くきっかけとなった金解禁について話を進めよう。話は関東大震災から始まる。
第一次大戦の勃発は、日露戦争後の不況にあえいでいた倭国経済に、天佑をもたらした。倭国のアジア各国むけの輸出は急増し、イギリス、ドイツなどの交戦諸国への軍需品その他の輸出も順調に伸びた。倭国は輸入国から輸出国に転じ、債務国から債権国になった
。
しかし大戦の終結によって、倭国経済の前途に翳りが生じてきた。1920年3月15日、東京株式取引所の株価暴落をきっかけに、戦後反動恐慌が起こった。平均株価は半値以下に暴落し、主要商品の価格崩落も大きかった。預金取り付け騒ぎや、七十四銀行の破綻も起こった。
大戦中にふくれあがった不良企業とそれに結び付いた2、3流銀行の経営は、いちじるしく悪化していた。このような情勢のなかで、政府・財界には、1917年以来の金輸出禁止を解き、緊縮財政・財界整理を行って、倭国経済の国際競争力を強めるべきだという意見が高まりつつあった。
そこに降ってわいてすべてをぶち壊してしまったのが、関東大震災であった。1923年(大正12)9月1日正午2分前、相模湾西北部を震源地とする、マグニチュ−ド7.9の大地震が、関東地方の南部を襲った。罹災者340万人、死者・行方不明者10万人以上。家屋の全焼44万7000余戸、全・半壊あわせて24万戸、被害総額45億7000万円にのぼる大惨事であった。これは、1922年度一般会計予算額の3倍を越える額である。
関東大震災は倭国経済破壊のためにフリーメーソンによって引き起こされた人工地震であった。不況に地震が追い打ちをかける。経済は破綻する。このパタ−ンは1995年に起きた阪神大震災でも繰り返し使われている。
山本権兵衛内閣の蔵相井上凖之助は、9月7日、被害地の銀行・会社を救済するため、支払猶予令を出して、債務の支払を一ヵ月猶予する措置をとった。続いて9月27日には、震災手形割引損失補償令を勅令のかたちで公布した。これは、震災前に銀行が割引いた手形のうち、震災のために決済できなくなったものは、倭国銀行が再割引して銀行の損失を救い、それによって日銀に損失が生じた場合には、1億円を限度として政府が補償することを定めたものである。これを震災手形と呼んだ。
政府の予想を上回って、日銀で再割引された震災手形は巨額に達した。震災手形のなかには、震災前からの不良貸付・放漫経営による不良手形が含まれており、それらが、震災手形の名のもとに再割引されてしまったからである。1926年末には、なお2億700万円の震災手形が残っていた。
これらの震災手形を所有していた銀行は約50行あったが、そのなかでも台湾銀行は最高の1億円にのぼる震災手形を抱えていた。これに対し、震災手形の大口債務者、手形を振出していた企業は、1924年末現在、鈴木商店関係が筆頭で、その金額は約7190万円。第一次大戦中の好況期に、鈴木商店の大番頭・金子直吉は積極的に事業を拡大し、台銀もそれに応じて融資を拡大した。ところが、戦後恐慌・関東大震災を契機に、鈴木商店はその放漫経営がたたって、しだいに経営を悪化させていく。しかし金子直吉は、鈴木が潰れたら倭国財界が潰れる、だから政府も決して鈴木を潰さないであろうと豪語し、台湾銀行からの借金を重ねていた。
台湾銀行は台湾銀行で、鈴木商店への貸付を打ち切ろうにも打ち切れない。すでに巨額の貸金が累積しており、取引停止を行えば、大損害にもなるし、台湾銀行の存立そのものが危うくなる。それでまた貸すという悪循環が続く。
1926年(昭和元)12月26日、震災手形整理法案を審議する第52帝国議会が開かれた。大正天皇崩御の翌日である。与党は憲政会、野党は政友会・政友本党。政友本党総裁の床次竹二郎は、朴烈事件と松島遊廓事件で若槻内閣に揺さぶりをかけた。
朴烈事件とは、1923年9月3日、在日朝鮮人無政府主義者の朴烈とその妻金子文子が、天皇暗殺のための爆弾を入手しようとしていたことを理由に逮捕された事件である。二人は死刑を宣告されたが、4月、二人は「御大典」の恩赦で無期懲役に減刑された。1926年7月29日、東京市内の各所に怪文書が配布された。文書には、1枚の怪写真が付されていた。写真は、椅子へ腰掛けた朴烈の膝の上に金子文子がもたれかかって坐り、本を読んでいる様が写っているものだった。そして怪文書の内容は、大逆の罪を犯せし両名に、かかる不謹慎なる優遇を与えた司法当局の非を激しく弾劾したものであった。
この怪文書配布の一件は、6日前の7月23日、宇都宮刑務所栃木支所で首吊り自殺した金子文子の訃報と同時に報じられたこともあって、世上をおおいに騒がせることとなった。野党・政友会は内閣打倒の絶好の攻撃材料として怪写真事件を政争の道具としたことから、大問題へと発展した。
これは余談だが、朴烈は戦後、在倭国朝鮮居留民団(民団)の団長となっている。松島遊廓事件とは、遊廓移転に絡んだ贈賄事件である。
若槻内閣の蔵相、片岡直温(倭国生命保険会社の社長、実業界の出身)は、3つの重要法案を第52議会に提出した。・銀行法案・震災手形損失補償公債法案・震災手形善後処理法案である。頂点に達した政友会の政府攻撃のなかで、飛び出してしまったのが有名な片岡失言であった。片岡蔵相の問題発言は、以下の通りである。
「苟も大蔵大臣の地位に有る者が、財界に於て破綻を惹起した時には、是は整理救済することに努めなければならぬことは当り前である、唯此時に於て、一つ引受者を見出して来るにあらざれば、救済のしようがない。・・現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました、是も洵に遺憾千万に存じますが、是等に対しまして、預金は約三千七百万円ばかりでございますから、是等に対して何とか救済をしなければならぬと存じますが、偖て救済をしようとすれば、其財産を整理した所のものを引受けると云う者を見出さなければ、是は整理は付きませぬ」(『帝国議会議事速記録』)
この片岡失言によって、銀行の取付け騒ぎが起こり、金融恐慌の口火が切られたのである。ところが実はこの時まだ渡辺銀行は支払いを停止してなかったのである。日銀への支払いに窮した東京渡辺銀行の重役渡辺六郎は、金策に奔走し、第百銀行京橋支店長の久保田吉律のところに泣きついて、なんとか午後1時までに手形交換尻決済資金を払い込むことができたのである。何故こんな手違いが生じてしまったのかはここでは述べないが、筆者はこの片岡失言は本当に失言だったのかどうか疑問に思っている。つまりこれは失言ではなく、意図的に発言されたものだったのではないか。その目的は勿論、金融恐慌を引き起こすためである。倭国の大蔵大臣が何故わざわざ恐慌を引き起こすことをするのか、その答えは本書を読み進めるうちに分かってくるだろう。
1927年(昭和2)3月中旬から始まった金融恐慌は、全国各地ヘ拡大した。このような情勢のなかで、震災手形二法案は、若槻内閣が押し切った。この震災手形二法案の通過と、3月21日からの日銀の非常貸出しとによって、金融恐慌はどうにか下火になった。