2017年03月24日

デイビット・ロックフェラー逝く

広報担当は、ロックフェラー氏が20日、米ニューヨーク州ポカンティコヒルにある自宅で眠っている間に安楽死したと発表。AP通信が報じた。

デイヴィッド・ロックフェラー氏は、スタンダード・オイルの創業者であり米国人初の10億ドル越えの資産を持った人物、ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー氏の孫。

安楽死…冷凍保存でしょうか?

そして現在、ロックフェラー夫妻と親交のある安部昭恵首相夫人は森友学園問題で窮地に立たされています。
デイヴィッドが亡くなったことで後ろ楯が無くなってしまったのかもしれません。

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https://mamorenihon.wordpress.com/2013/11/11/%E4%B9%BE%E6%9D%AF%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC%EF%BD%8A%EF%BD%92%EF%BC%8E%E5%A4%AB%E5%A6%BB%E3%81%A8%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%98%AD%E6%81%B5/
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「総理に失望しました」「祈ります」安倍昭恵首相夫人と籠池泰典氏妻のメールやり取り要旨

「総理に失望しました」「祈ります」安倍昭恵首相夫人と籠池泰典氏妻のメールやり取り要旨
2017.3.24 02:14
http://www.sankei.com/affairs/news/170324/afr1703240006-n1.html

【平成28年6月4日】
 籠池泰典氏の妻 ご無沙汰しております。(略)
 安倍昭恵首相夫人 携帯水没でデータが一部飛んでしまいました。失礼ですが、お名前を教えて下さい。
 籠池氏妻 今晩は。塚本幼稚園、籠池泰典の家内です。
 昭恵夫人 大変失礼致しました。
 【平成29年2月25日】
 籠池氏妻 (略)園長は天から使命をいただき学校を造ります。国家の為に信念でやってます。やましいことしてません。
 昭恵夫人 信じたいと思っています。しかし園長の説明を聞いても私は人に納得してもらえるように話すことはできません。
 籠池氏妻 (略)ひつこいとは。安倍総理には失望しました。主人は悪者ですね。
 昭恵夫人 人の受け取り方はそれぞれですね。琵琶湖の竹生島に行き、祈りました。籠池先生のお役割もわかったような気がします。お辛いでしょうが、頑張って下さい。ありがとうございます。
 【2月26日】
 籠池氏妻 あきえさん、辛くなんかありません。安倍総理を信頼していた主人は国会でしつこい方なんかいわれても動じない本来政治家がすべき事をしてますからね。
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外国人労働者が初の100万人突破 萩生田官房副長官「外国人の雇用環境を改善する」

厚生労働省は1月27日、2016年10月末時点の外国人労働者数が初めて100万人を突破し、108万3769人になったと発表した。
前年比で19.4%増加し、企業に届け出を義務付け集計を始めた08年以来最多となった。
全体の増加率はこれまでで最も大きく、全ての都道府県で前年の人数を上回った。
人口減少で人手不足感が強まる中、外国人労働者に頼る流れは続くとみられるが、欧米諸国では外国人居住者の増加が国を二分する論争の的になっている。
倭国でも受け入れをめぐり国民的な議論が必要となりそうだ。

人手不足から高い技能を持つ人材や留学生アルバイトの受け入れが増えたほか、安価な労働力との批判がある技能実習生の大幅増も全体を引き上げた。

国籍別で最多は中国の34万4658人で前年比6.9%増。
次いでベトナムが17万2018人で56.4%増加し、留学生によるアルバイトや技能実習生が多くを占めた。
フィリピンが12万7518人で続いた。ネパールはベトナムに次ぐ増加率(35.1%)だった。

在留資格別では、留学生が25.0%増えて20万9657人。技能実習が25.4%増の21万1108人、専門・技術職で働く人は20.1%増の20万994人。
都道府県別では、東京が最多で33万3141人、愛知が11万765人、神奈川が6万148人だった。

政府は今後も受け入れを拡大する。
介護現場での技能実習生受け入れの解禁を既に決めたほか、今国会では国家戦略特区を活用して農業分野で外国人が働けるよう法改正する方針だ。

■萩生田光一官房副長官「外国人の雇用環境を改善する」

外国人労働者数100万人超で 萩生田光一官房副長官は27日の記者会見で、
国内の外国人労働者数が平成2016年10月末現在で過去最高の108万人にのぼったことについて、
「政府が進める高度人材の受け入れが進み、アルバイトをする外国人留学生数が増加した」などと要因を分析した。

その上で「引き続き、わが国で就労している外国人の雇用環境の改善を図っていく」と語った。
http://j.sankeibiz.jp/article/id=706
ラベル:移民
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自民党に有利な世論はこうして造られる? 工作員1人で500人分の世論形成

ネトサポ


・ホットリンク、ガイアックス、DYMなど工作請負会社が自○党に有利な世論を捏造し拡散
・工作活動専用ルームを完備  アルバイトの工作員がマニュアルに従いビジネスライクに仕事をこなす
・タブレットなら1人で100台を担当 1台につき5個のアカウントを保有 工作員1人で500人分の世論形成
・自○党本部が書き込み用のテンプレートを配布 レスはコピペなので「ミンスが○○」など内容がどれも同じ
・ネトウヨのブログ ツイッター フェイスブックに「いいね!」やリツーイト
・もちろん2chにも常駐 産経新聞の記者が自作自演でスレ立て 安倍自民擁護の8割はバイトによるもの
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2017年01月09日

岩崎弥太郎(三菱財閥と日銀総裁)

 1930年(昭和5)6月18日、大任をはたして半年ぶりに帰国した若槻全権が東京駅頭に立った時、十数万の群衆が熱狂的歓声をもって出迎えた。新聞も世論も軍縮賛成であったのだ。ではこの統帥権干犯の大騒ぎという猿芝居の意味はいったい何だったのか。ここには、善玉=軍縮・民政党(憲政会)・新聞・世論、悪玉=軍部・政友会・枢密院、という図式がはっきりと見える。政友会も枢密院も悪役を演じていたに過ぎないのだ。善を引き立たせるには、悪の存在もまた必要なのである。では何故、軍縮=善といえるのかというと、倭国が戦争に負けたからである。浜口内閣の外相・幣原喜重郎など、戦後、首相になっている。ちなみに、この幣原喜重郎はフリーメーソンである可能性が高い。フリーメーソン・松平恒雄と一緒に、1950年4月、マスタ−メ−ソンの最高階級のミ−ティングに出席しているからだ。そして幣原喜重郎と松平恒雄は徳川家を通じて姻戚関係にある。幣原喜重郎は三菱初代総帥・岩崎弥太郎の娘と結婚している。幣原は大正13年、加藤高明(憲政会総裁)内閣の外務大臣を務めているが、加藤高明もまた弥太郎の娘と結婚しているのだ。つまり二人は義兄弟ということになる。ちなみに加藤高明は、東京日日新聞第4代社長(1904〜1906年)を務めている。幣原はロンドンで駐英公使の林薫からフリーメーソンの話を聞き引きつけられた、と語っている。林公使は明治35年の日英同盟の功により子爵に、明治39年の日露戦争の功により伯爵に叙せられているが、イギリスでフリーメーソンに入社しているのだ。林公使は当時日銀副総裁であった高橋是清がロンドンで日露戦争の戦費調達の外債を募集した時に、便宜をはかっている。この林薫がまた、岩崎家と姻戚関係を結んでいるのだ。では、以上の関係を家系図に描いてみよう。  系図3を見て頂きたい。フリーメーソン・林薫の孫である林忠雄は、岩崎小弥太(第4代三菱総帥)の娘と結婚している。また、林薫の娘は福沢諭吉の福沢家を通じて、岩崎家と姻戚関係にある。  次に系図4を見て頂きたい。幣原喜重郎の二男が野村銀行・野村証券の野村元五郎の長女と結婚している。幣原喜重郎はまた、西郷家と徳川家と佐竹家を通じて鍋島家と姻戚関係にあるが、鍋島家は松平恒雄と三島通陽と姻戚関係にある。松平恒雄と三島通陽がフリーメーソンであることは、すでに述べた。ちなみに、松平恒雄の長女は秩父宮妃になっている。そして幣原喜重郎と鍋島家を結ぶ佐竹家は、島津忠彦を通じて岩崎家とつながっているのだ。幣原喜重郎が岩崎弥太郎の娘と結婚していることは、先に述べた。  しかしそれにしても、この系図はいったい何を示しているというのだろうか。簡単である。ロンドン条約実現を強く望んでいた内大臣牧野伸顕(系図2)、外務大臣幣原喜重郎、駐英大使松平恒雄が一族を形成していたのだ。そしてその一族の中心には、三菱財閥の岩崎家があったのである。この陰謀の輪に、ロンドン海軍軍縮会議に随員として加わった樺山愛輔を加えたい。樺山愛輔の父・樺山資記は海軍大臣などを務めているが、第3代警視総監(明治13年10月23日〜明治16年12月23日)も務めた。樺山愛輔の二女正子は、白州次郎に嫁いでいる。正子の姉の泰子は、元倭国郵船社長近藤廉平の息子近藤廉治に嫁いだ。近藤廉平の妻は、三菱銀行初代頭取を務め、岩崎家と縁続きになる豊川良平の妹である。正子の妹宣子は、松方家に嫁いでいる。第5代警視総監(明治18年12月22日から明治21年10月23日)が三島通陽の祖父・三島通庸である。島津家からは島津忠重が随員に加わっている。  では、ロンドン条約実現に結集したこの一族は何を望んでいたというのだろうか。平和の実現であろうか。そうではあるまい。ロンドン海軍軍縮条約による軍縮実施という不況要因と、浜口内閣の大蔵大臣井上凖之助が実施した金解禁は、倭国経済を昭和恐慌へと突き落としたからである。  だが、浜口・幣原が調印したロンドン海軍軍縮条約は軍部、右翼の怒りを買った。1931年11月14日、浜口首相は陸軍大演習を陪観するため岡山へ向かうところを、東京駅で狙撃された。犯人は右翼団体・愛国社の佐郷屋留雄。浜口首相が狙撃されたのと同じホ−ムには、その日たまたま新任の駐ソ大使広田弘毅を見送りに来ていた幣原喜重郎がいた。弾丸は急所を逸れ、浜口は命だけはとりとめた。翌15日、民政党は臨時閣議を開き、臨時首相代理を設置し、これに幣原喜重郎をあてた。  浜口首相の暗殺計画は、1930年春から、愛国社盟主岩田愛之助を中心に進められていたという。浜口内閣は金解禁の時機を誤って、倭国経済を深刻な不景気に投げ込んだ。そのため、失業者・倒産者・犯罪者が続出し、彼らは浜口内閣に対する不満を強めていたのだ。  浜口首相狙撃事件は、1930年代を彩るテロ、ク−デタ−の先駆けとなった。翌31年(昭和6)3月(3月事件)と10月(10月事件)に、桜会将校によるク−デタ−未遂事件発生。32年、血盟団事件、5・15事件、36年、2・26事件と続く。倭国はいよいよ狂気の時代へ突入していくことになるのだ。 No.1(終)
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2017年01月08日

岩崎弥太郎(三菱財閥と日銀総裁)

 群小銀行の合併劇の対極に生じた現象は、大銀行への資本や預金の集中である。五大銀行(三井・三菱・住友・安田・第一)への預金の集中率は、1926年の23.7パ−セントから28年には32.9パ−セント、31年には38.3パ−セントまで増加している。こうして、財閥系銀行は、金融界での覇権を確立したのだ。
 片岡失言と台湾銀行休業に端を発したこの恐慌は、財閥とその手先である政治家が結託して引き起こしたものであった。その目的は、財閥による金融界の支配の確立にある。不況期には財閥系銀行の収益も悪化することは事実である。しかし恐慌によって弱小銀行が潰れてくれれば、相対的に大銀行の支配力は強化される。だから財界は不況を歓迎しないというのは、偏った見方なのである。好景気の時にはインフレによって儲け、不況期には巨大な資金力を背景に金融支配を強める。いずれの時にも財閥は得をするのである。だが
何故彼らは好況、不況の波を意図的に作り出さねばならないのだろうか。市場を独占したまま、安定した支配を続けて行けば良いのではないか、と考える人も多いだろう。だが不況期に財閥が吸収するものは、他人の汗の結晶である。顧客や店舗や人材やノウハウと言った、他人が営々と築き上げてきたものをそっくり頂けるのである。正に濡れ手に粟といえよう。好景気の時に築き上げられた他人の財産を、不景気の時にごっそりと頂く。ブロイラ−(食肉用の若いニワトリ)が餌をたっぷりと与えられてまるまると太ったところを、絞め殺されて貪り食われるようなものである。したがって、好景気という滋養を与えて中小産業を育成することも、財閥にとってはまた必要な過程なのである。これはバブルの発生といいかえることも出来よう。これが現代にもそっくりそのまま当てはまることは、改めて指摘するまでもないだろう。

 1929年(昭和4)7月2日、張作霖爆殺事件の責任をとって、田中内閣が総辞職した。田中政友会内閣が倒壊した後、野党第一党民政党の浜口雄幸に組閣の大命が下った。2年前の6月1日、憲政会は政友本党と合同し、立憲民政党を結成、総裁には浜口が就任していた。浜口内閣の主要閣僚は、外務大臣幣原喜重郎・内務大臣安達謙蔵・大蔵大臣井上凖之助・陸軍大臣宇垣一成・海軍大臣財部たけし・鉄道大臣江木翼であった。この浜口内閣の政策の二大両輪が、軍縮と金解禁であった。まず、軍縮から見ていくことにしよう。
 1930年1月21日、ロンドン海軍軍縮会議が日・米・英・仏・伊の参加のもとに開催された。倭国首席全権の元首相若槻礼次郎の他、財部たけし海相、松平恒雄駐英大使(イギリスのフリーメーソン)、永井松三駐ベルギ−大使が倭国全権団に任命された。
 ロンドン会議に臨むにあたって、若槻ら倭国全権団が政府から受け取った訓令は3つである。・補助艦全体の対米比率を7割とする、・大型巡洋艦についても同じく対米7割、・潜水艦については7万8000トンの現有量を保持する、である。
 交渉は難航したが、倭国側は、補助艦総括で対米6割9分7厘5毛、大型巡洋艦は6割とするが、アメリカ側は、3隻の起工を遅らせて1936年までの条約期間中は7割とする、潜水艦は5万2700トンで均等、という日米妥協案が成立した。4月22日、ロンドン海軍軍縮条約が調印された。ところがこのロンドン条約が統帥権干犯のおそれがあるとして、海軍、政友会、右翼団体、枢密院の反対にあうのだ。条約は英米への屈服であり、倭国の国防を危うくするというのである。
 当時の枢密院では、いぜんとして平沼騏一郎副議長、伊藤巳代治顧問官らが実権を握っていた。幣原外交に反感を持つ平沼は、軍との結びつきも強く、ロンドン条約反対の立場を鮮明にしていた。伊東も、「巳代治の目の黒い間はこの条約の文句のままにては、断じて枢府を通過させません」と、息巻いていた。帝国憲法では、緊急勅令と同様に、いっさいの条約は、枢密院の審査を経て天皇が批准する仕組みになっているのである。
 ところがこの審査委員長・伊藤巳代治が最終審査委員会でころっと態度を豹変させて、条約は無条件で「御批准然るべき旨」を表明し、全員一致の可決となったのだ!方針転換の理由は、天皇への配慮、票決での敗北の見通し、浜口首相らの不退転の決意、軍縮を歓迎する世論、自己保身と様々にいわれている。しかし筆者は、これまた新たなやらせ芝居ではなかったかと思っている。伊藤巳代治はロンドン条約に反対する気などさらさらなかったのである。枢密院での強硬姿勢は国民を欺く単なるポ−ズであった。
 枢密院での否決を予想し、政変を当てにした政友会こそいい面の皮であった。時の政友会総裁犬養毅、総務鳩山一郎(フリーメーソン)である。
 「鳩山一郎。1951年3月29日入会。No.2(ロッジ番号)、元首相、昭和29年、青年運動の『友愛同志会』(現薫子夫人会長。ク−デンホ−フ・カ−レルギ−伯が名誉会長)を結成。『友愛同志会はフリーメーソンの精神を基礎にしている』が鳩山氏の口グセだったという。ちなみに、“パン・ヨ−ロッパ主義者”でEC創設者の一人、カ−レルギ−伯はオ−ストリアのメ−ソンといわれている」(『フリーメーソンの秘密』より)
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2017年01月07日

岩崎弥太郎(三菱財閥と日銀総裁)

 ところが、モラトリアムの緊急勅令発布の手続きを踏むには、どんなに急いでも21日いっぱいはかかる。発令は23日になるとみなければならない。そこで高橋蔵相はこの二日間の応急措置を講じなければ危険と考え、三井銀行の池田成彬と三菱銀行の串田万蔵の二人をまねき、民間銀行は22、23日の両日、自発的に休業してもらいたいと頼んだ。池田と串田は、21日午前11時半より、急遽、東京銀行集会所と東京手形交換所の連合理事会を開き、2日間の全国一斉休業を決定、大阪その他各地の銀行集会所にも伝え、協力を仰いだ。
 いっぽう政府は、支払猶予令の緊急勅令案を上奏、ただちに裁可を得て、枢密院の審議に委ねた。ここで不思議なことが起こる。枢密院は若槻憲政会内閣の時には拒否した緊急勅令案を、こんどはあっさりと可決したのである。高橋の根回しのお蔭であるとか、平沼・伊東たちは、若槻・幣原らの軟弱外交が気にくわず、前の緊急勅令案を否決したのだ、とか言われている。しかし恐らく真相はそうではあるまい。平沼・伊東は台銀救済案を否決して、二、三流銀行が次々に潰れるまで待ったのである。枢密院もぐるだったのだ。
 こうして5月12日までのモラトリアムが実施された。全国の民間銀行も、22、23の両日、一斉休業に入った。24日が日曜日なので、結局、3日間にわたって倭国中の銀行が休業したことになる。これは世界の金融史にも希有なことであった。
 3日間の休業によって、預金者の不安気分は薄らいだ。25日は平穏に過ぎた。むしろ、21日に預金を引き出した預金者が、それを一流銀行に持ち込む光景が市内各所で見られた。金融恐慌の結果、都市五大銀行が預金を集中して金融界に覇権を確立したのだ。このことが、政府が金融恐慌を起こした真の理由だったのである。憲政会も政友会も枢密院も巨大財閥によって動かされていたのだ。
 事態を無事に収拾した高橋は、これで自分の役目は終わったと判断し、約束どおり、6月2日に蔵相を辞めている。わずか42日間の大蔵大臣であった。
 高橋の後は、政友会のもう一人の財政通、三土忠造が文相より蔵相に就任した。なお、高橋は、蔵相就任中の5月20日、日銀総裁の市木乙彦を更迭し、井上凖之助を新総裁に再任命した。
 三土蔵相は、井上日銀総裁と協議の上、休業銀行の経営を整理し、そのいくつかを合併して新銀行をつくることにした。そのうちの一つが、1927年(昭和2)10月に設立された昭和銀行である。さらに政府は、これを機会に、弱小銀行・不良銀行の整理に乗り出した。第52議会で成立した銀行法をテコにして、銀行合同を強力に押し進めた。これは、銀行経営の健全化をはかるため、銀行にたいする政府の指導・監督を強めるとともに、普通銀行の最低資本金を100万円とし、東京・大阪に本支店を有するものは200万
円とするというように、小銀行の存在を許さない強い規定を含んでいた。資力のない弱小銀行は、いきおい合同に走ることになった。こうして、1928年中に合同に参加した銀行は349行、合同によって消滅した銀行は223行に及んだ。28年から32年末までの累計では、合同に参加した銀行864、合同による消滅銀行は534行に達している。凄まじい銀行整理が進んだ。
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2017年01月06日

「ビル・ゲイツの軽井沢別荘」噂検証

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不動産業者からのルートで聞いたという近隣の住民は「ビル・ゲイツは倭国好きで京都にも別荘を持っている。孫正義さんと仲が良くて軽井沢も気に入った。この場所を勧めたのは孫さんだよ」と、まことしやかに話す。噂は広がり、「本当の施主はビル・ゲイツの妹だ」とか、「息子の名前になっている」などの情報が入ってきた。建設地は長野県北佐久郡軽井沢町長倉2139−3448

建築申請が会社の山荘ではなく個人の別荘だったことから、マイクロソフトではなく、ビル・ゲイツの別荘だという臆測が強くなった。春になると工事が開始された。建築現場にある看板の建築主は、土地の所有者でもある「株式会社ピーエムリゾート」だった。この「株式会社ピーエムリゾート」は東京都港区新橋の住所になっているのですが、実態がないペーパーカンパニーです。

県に届け出た建築計画書によると、敷地面積2万1969.47平方メートル(約6657坪・テニスコート換算で84面分)、延床面積6238.63平方メートル(約1890坪)、地上1階、地下3階。個人の別荘というにはあまりに大きく、どうしてこれが個人の別荘として認められるのか、という疑問はぬぐえない。企業の山荘として申請すると近隣への説明会が必要になり反対される可能性もあるが、個人の別荘なら説明会はいらない。そのために個人と言っているのではないか、という疑問を感じさせるほど巨大な建物なのだ。

噂どおりビル・ゲイツだというなら、このピーエムリゾートの存在は何なのか。そして代表取締役の黒川正博なる人物とは?

軽井沢町役場の生活環境課長の荻原確也さんは「大きいからといって個人の別荘でないとはいえないが、あまりに大きな建物なので『行為届』を出してもらい要綱の面でも厳しくチェックした」と話す。いったい誰の別荘ですか? という質問には「大成建設は絶対言えないというので、いまだ私たちもわからない。大成建設が責任を持つと言うので了承した」。名義上の所有者がピーエムリゾートであることは明白で、それを「絶対言えない」と言うのは、別に事情があるからだろうか。
地下3階、地上1階としたのは、地上の景観を考えて地下へと延ばした」と言う。大量の土砂の運搬について大変なことになると想像できなかったのかと質問すると、「土砂の運搬については、大成に慎重に行うよう注意している。近隣への説明は大成から区長に話してあるし、大成も近隣に説明を行っていると思う。個人の別荘ということで受けているので、建ったあとで事実が違ったら、そのままということはない。何らかの対処を考える。使う人数は家族で4〜5人、ほかに管理人と聞いている」。

2016年の6月頃(恐らく)に完成したと思われる別荘ですが、現在も家主は判明していないようです。

ラベル:ビル・ゲイツ
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岩崎弥太郎(三菱財閥と日銀総裁)

 ところがこんどは台湾銀行が鈴木商店に対し、新規貸出しを打ち切ってしまったのだ。鈴木商店はもとより台銀も危ない。市中銀行は、三井銀行をはじめとして、台湾銀行に放出していた短期貸出金(コ−ル=ロ−ン)の回収を急いだ。1926年末現在で、台湾銀行の借入金約1億8100万円、短期借入金約5300万円、再割引手形2億2900万円、この三口合計で約4億6300万円の多額に達する。その他の借受金等を合計すると、借入金とみなされるものは、じつに4億7000万円の巨額に達していたことになる。これは預金の5倍以上、自己資本の10倍をこえる額であった。三井銀行がコ−ルの回収をおこなうと、他の銀行もぞくぞくと台銀にコ−ル回収、再割引手形の買い戻しを迫っていった。
 時の三井銀行の頭取は池田成彬である。池田が3000万円のコ−ルを引き上げたから、台湾銀行が行き詰まったともいえる。池田は後に第14代日銀総裁になっている。池田は三井財閥を代表する銀行家だが、池田の娘が何と三菱の岩崎家に嫁いでいるのだ。後に詳しい家系図を示す。
 市中銀行によるコ−ルの回収は、台湾銀行を絶対絶命の窮地に追い込んだ。4月5日、鈴木商店は内外の新規取引をいっさい中止する発表をおこなった。4月8日、鈴木系の銀行である神戸の六十五銀行が、預金取り付けにあって休業に陥った。4月13日、臨時閣議が首相官邸で開かれた。審議は翌4月14日の零時20分まで続けられた。その結果、次の緊急勅令案が最終案としてきまった。
 第一条 倭国銀行は昭和3年5月末日まで台湾銀行に対し無担保の特別融通をなすことを得
 第二条 政府は第一条の規定に従ひ倭国銀行が台湾銀行に融通をなしたるため損失を生じたる場合においては二億円を限度として補償をなすことを得
 その日、若槻首相は赤坂離宮において天皇に伺候、緊急勅令案を上奏して裁可を得た。枢密院もただちに精査委員を決定し、午後3時から審議が開始された。精査委員は、委員長平沼騏一郎、委員伊藤巳代治ほか7名であった。平沼は司法界の大御所として、枢密院
に隠然たる勢力を持っていた。また、右翼団体を創立したりして、軍部との結びつきも強かった。伊東は、中国外交における強硬論者としても知られており、若槻内閣の幣原外交を、つねづね軟弱外交として非難攻撃していた。ちなみにこの伊東巳代治は、東京日日新聞(東京で最初の日刊紙、毎日新聞の前身)第3代社長(明治24〜明治37)を務めている。
 4月17日の枢密院会議で緊急勅令案は否決された。若槻憲政会内閣は総辞職した。翌18日、台湾銀行がついに内地および海外支店をいっせいに閉めるとの声明を出した。他の銀行も次々に休業に追い込まれた。
 若槻憲政会内閣が総辞職した後、1927年(昭和2)4月19日、田中義一政友会総裁に、組閣の大命が下った。田中は高橋是清に蔵相就任を依頼する。高橋は1925年、政友会総裁を田中義一に譲り、政界から引退していた。
 高橋蔵相がまず指令したことは、日銀の非常貸出しであった。4月21日、午前10時から夜まで閣議が続けられ、二つの応急処置をとることで合意をみた。・緊急勅令をもって3週間の支払猶予令、すなわち、モラトリアムを全国に布くこと、・臨時議会を召集して、台湾金融機関の救済および財政安定に関する法案の審議をもとめること、の二つである。
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2017年01月05日

岩崎弥太郎(三菱財閥と日銀総裁)

第9代 井上凖之助(大正8年3月13日〜大正12年9月2日)
第11代 井上凖之助(昭和2年5月10日〜昭和3年6月12日)
 後に述べるが、この井上凖之助が蔵相の時に、問題の金解禁を断行したのである。井上凖之助は田中義一政友会内閣の時に、高橋是清蔵相に請われて日銀総裁に就任、「飛車角揃う」と評された。

第10代 市来乙彦(大正12年9月5日〜昭和2年5月10日)

 井上凖之助の名前が登場したところで、倭国を地獄の戦争に導くきっかけとなった金解禁について話を進めよう。話は関東大震災から始まる。
 第一次大戦の勃発は、日露戦争後の不況にあえいでいた倭国経済に、天佑をもたらした。倭国のアジア各国むけの輸出は急増し、イギリス、ドイツなどの交戦諸国への軍需品その他の輸出も順調に伸びた。倭国は輸入国から輸出国に転じ、債務国から債権国になった

 しかし大戦の終結によって、倭国経済の前途に翳りが生じてきた。1920年3月15日、東京株式取引所の株価暴落をきっかけに、戦後反動恐慌が起こった。平均株価は半値以下に暴落し、主要商品の価格崩落も大きかった。預金取り付け騒ぎや、七十四銀行の破綻も起こった。
 大戦中にふくれあがった不良企業とそれに結び付いた2、3流銀行の経営は、いちじるしく悪化していた。このような情勢のなかで、政府・財界には、1917年以来の金輸出禁止を解き、緊縮財政・財界整理を行って、倭国経済の国際競争力を強めるべきだという意見が高まりつつあった。
 そこに降ってわいてすべてをぶち壊してしまったのが、関東大震災であった。1923年(大正12)9月1日正午2分前、相模湾西北部を震源地とする、マグニチュ−ド7.9の大地震が、関東地方の南部を襲った。罹災者340万人、死者・行方不明者10万人以上。家屋の全焼44万7000余戸、全・半壊あわせて24万戸、被害総額45億7000万円にのぼる大惨事であった。これは、1922年度一般会計予算額の3倍を越える額である。
 関東大震災は倭国経済破壊のためにフリーメーソンによって引き起こされた人工地震であった。不況に地震が追い打ちをかける。経済は破綻する。このパタ−ンは1995年に起きた阪神大震災でも繰り返し使われている。
 山本権兵衛内閣の蔵相井上凖之助は、9月7日、被害地の銀行・会社を救済するため、支払猶予令を出して、債務の支払を一ヵ月猶予する措置をとった。続いて9月27日には、震災手形割引損失補償令を勅令のかたちで公布した。これは、震災前に銀行が割引いた手形のうち、震災のために決済できなくなったものは、倭国銀行が再割引して銀行の損失を救い、それによって日銀に損失が生じた場合には、1億円を限度として政府が補償することを定めたものである。これを震災手形と呼んだ。
 政府の予想を上回って、日銀で再割引された震災手形は巨額に達した。震災手形のなかには、震災前からの不良貸付・放漫経営による不良手形が含まれており、それらが、震災手形の名のもとに再割引されてしまったからである。1926年末には、なお2億700万円の震災手形が残っていた。
 これらの震災手形を所有していた銀行は約50行あったが、そのなかでも台湾銀行は最高の1億円にのぼる震災手形を抱えていた。これに対し、震災手形の大口債務者、手形を振出していた企業は、1924年末現在、鈴木商店関係が筆頭で、その金額は約7190万円。第一次大戦中の好況期に、鈴木商店の大番頭・金子直吉は積極的に事業を拡大し、台銀もそれに応じて融資を拡大した。ところが、戦後恐慌・関東大震災を契機に、鈴木商店はその放漫経営がたたって、しだいに経営を悪化させていく。しかし金子直吉は、鈴木が潰れたら倭国財界が潰れる、だから政府も決して鈴木を潰さないであろうと豪語し、台湾銀行からの借金を重ねていた。
 台湾銀行は台湾銀行で、鈴木商店への貸付を打ち切ろうにも打ち切れない。すでに巨額の貸金が累積しており、取引停止を行えば、大損害にもなるし、台湾銀行の存立そのものが危うくなる。それでまた貸すという悪循環が続く。
 1926年(昭和元)12月26日、震災手形整理法案を審議する第52帝国議会が開かれた。大正天皇崩御の翌日である。与党は憲政会、野党は政友会・政友本党。政友本党総裁の床次竹二郎は、朴烈事件と松島遊廓事件で若槻内閣に揺さぶりをかけた。
 朴烈事件とは、1923年9月3日、在日朝鮮人無政府主義者の朴烈とその妻金子文子が、天皇暗殺のための爆弾を入手しようとしていたことを理由に逮捕された事件である。二人は死刑を宣告されたが、4月、二人は「御大典」の恩赦で無期懲役に減刑された。1926年7月29日、東京市内の各所に怪文書が配布された。文書には、1枚の怪写真が付されていた。写真は、椅子へ腰掛けた朴烈の膝の上に金子文子がもたれかかって坐り、本を読んでいる様が写っているものだった。そして怪文書の内容は、大逆の罪を犯せし両名に、かかる不謹慎なる優遇を与えた司法当局の非を激しく弾劾したものであった。
 この怪文書配布の一件は、6日前の7月23日、宇都宮刑務所栃木支所で首吊り自殺した金子文子の訃報と同時に報じられたこともあって、世上をおおいに騒がせることとなった。野党・政友会は内閣打倒の絶好の攻撃材料として怪写真事件を政争の道具としたことから、大問題へと発展した。
 これは余談だが、朴烈は戦後、在倭国朝鮮居留民団(民団)の団長となっている。松島遊廓事件とは、遊廓移転に絡んだ贈賄事件である。
 若槻内閣の蔵相、片岡直温(倭国生命保険会社の社長、実業界の出身)は、3つの重要法案を第52議会に提出した。・銀行法案・震災手形損失補償公債法案・震災手形善後処理法案である。頂点に達した政友会の政府攻撃のなかで、飛び出してしまったのが有名な片岡失言であった。片岡蔵相の問題発言は、以下の通りである。
 「苟も大蔵大臣の地位に有る者が、財界に於て破綻を惹起した時には、是は整理救済することに努めなければならぬことは当り前である、唯此時に於て、一つ引受者を見出して来るにあらざれば、救済のしようがない。・・現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました、是も洵に遺憾千万に存じますが、是等に対しまして、預金は約三千七百万円ばかりでございますから、是等に対して何とか救済をしなければならぬと存じますが、偖て救済をしようとすれば、其財産を整理した所のものを引受けると云う者を見出さなければ、是は整理は付きませぬ」(『帝国議会議事速記録』)
 この片岡失言によって、銀行の取付け騒ぎが起こり、金融恐慌の口火が切られたのである。ところが実はこの時まだ渡辺銀行は支払いを停止してなかったのである。日銀への支払いに窮した東京渡辺銀行の重役渡辺六郎は、金策に奔走し、第百銀行京橋支店長の久保田吉律のところに泣きついて、なんとか午後1時までに手形交換尻決済資金を払い込むことができたのである。何故こんな手違いが生じてしまったのかはここでは述べないが、筆者はこの片岡失言は本当に失言だったのかどうか疑問に思っている。つまりこれは失言ではなく、意図的に発言されたものだったのではないか。その目的は勿論、金融恐慌を引き起こすためである。倭国の大蔵大臣が何故わざわざ恐慌を引き起こすことをするのか、その答えは本書を読み進めるうちに分かってくるだろう。
 1927年(昭和2)3月中旬から始まった金融恐慌は、全国各地ヘ拡大した。このような情勢のなかで、震災手形二法案は、若槻内閣が押し切った。この震災手形二法案の通過と、3月21日からの日銀の非常貸出しとによって、金融恐慌はどうにか下火になった。

posted by miko at 19:00| Comment(0) | 岩崎弥太郎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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